contents
毎日生きていることがどこか<むなしい>、モノはあふれているけど、どこか心が満たされない、と感じることはありますか?
今回は、諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』という著作を取り上げ、むなしさを解消するヒントについて考えてみたいと思います。
心理カウンセラーであり、『孤独であるためのレッスン』などの著作がある諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』という著作は、人生のむなしさを解消するきっかけをつかむためにおすすめな一冊です。
現代社会においては、いくらテクノロジーやアルゴリズムによる人工知能が発達したところで、「何のために生きるのか?」「なぜ生きることはむなしいのか?」といった問いに悩み、答えを出せない経験をお持ちの方は多いのかもしれません。
また、毎日あくせく働き、稼いだお金でいくら魅力的な商品を買ったとしても、どこか心が満たされない、と感じている方も、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?
私自身は、どういうわけか「満たさない」「むなしい」「生きていることに意味はない」などと、つい思ってしまうのには、個人の心の問題だけではなく、ただ生きていることが「素晴らしい」「気持ちよい」「楽しい」と感じることが出来ないような、個人の心や「いのち」をなおざりにした、産業中心・利益重視の計算高い社会構造も関係しているように思うのです。
たとえば今からおよそ20年前の1997年に出版された本書『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』(講談社現代新書)には、
どうしたわけか、私たち日本人は今、ほんとうに疲れ切ってしまっている。
モノは溢れているのに元気がない。いのちが活性化されていない。エネルギーがどこか滞っていると言ってもいい。
むなしさの時代。今私たちが生きているこの時代の、いったい何が私たちをそんなふうにさせてしまうのだろう。
(中略)
終わらない日常。見えすぎる不安。透明な閉塞感。
巨大なシステムの中に飲み込まれて暮らしている現代人。
そこには、私たちの生きる意欲をじりじりと奪い取らないではいない何かがある。
(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p44)
という一節がありますが、ここに書かれていることはいつ読んでも、不思議なことにまったく違和感はありません(笑)。
むなしさを感じることはごく自然なこと。
おそらく、人生における「生きる歓び」が失われてしまったのは、今に始まったことではなく、どこの国でも近代化が進み、産業社会が発展するにつれて、「ひと」や心の領域のことよりも「モノ」が中心になり、何でも合理的に思考することで、日々の生活において「生きがい」や「生きる意味」を感じることが難しくなっていったように思われるのです。
そのため、現代社会においては、ふとした瞬間に「生きることのむなしさ」を感じてしまうことは、ごく自然なことのように思います。
そして、その時々感じられる「むなしさ」を、「私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージ」として受け取ることが大切だと、諸富祥彦氏はいうのです。
どこかむなしい。つまらない。
心の底から満たされる「何か」が足りない、という心のむなしさ。
時折おとずれるこの「心のつぶやき」を、私たちはふつう、何かよくないもののようにして、それから身を遠ざけようとする。
(中略)
けれど、実はこれは、たいへんにもったいないことである。むなしさは、私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージだからである。
だから、私たちのむなしさからの出発は、自分の内側で口が開けているそのむなしさから目を逸らさずに、きちんとそれを見つめることから始めなくてはならない。
(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p106~107)
大切なのはむなしさから目をそらさず、しっかりと見つめること。
本書『〈むなしさ〉の心理学』のなかでは、フランクルの心理学やトランスパーソナル心理学などを紹介しながら、具体的に「むなしさ」を超えていくためのヒントが多く記されていますが、重要なのは、「むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる」ことだといいます。
むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる。
そして自分の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていく。
私が今、話しているのは、たったこれだけの実にシンプルな方法である。
これはしかし、きわめてしんどい作業である。
現代社会には、もっと手軽で簡単に「生きる意味」を与えてもらえそうな魅惑的な商品がゴロゴロ転がっている。
(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p123)
ちなみに「魅惑的な商品」とは、自己啓発セミナーや新興宗教、瞑想、チャネリングなどのことで、諸富氏は、これらを「頭ごなしに否定するつもりはない」「いい経験ができればそれでいい」としています。
しかし、「質の悪いセミナーやセラピーのすべてに通じるのは、ほかの誰かや既成の理論を「信じる」ことから始まる、という点である」と述べており、誰かの理論を「信じる」ことから始まるような、魅惑的な商品に安易に自分を委ねてしまうことは問題だとしています。
いずれにせよ、そこでは、自分がこれからどう生きるかを、ほかの誰かに委ねてしまっている。これは、自分の人生に対する責任放棄、責任転嫁にほかならない。
くり返し言おう。「生きる意味」を問い求める時に、一番大切なこと。それは、自分のむなしさから目を逸らさずに、それをしっかり見つめること。そして、あくまで自分自身の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ。
このきわめてシンプルで厳しい道のりを、どこまでも歩んでいくことである。
(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p124)
生きることの「むなしさ」を解消するのは簡単ではない。
生きることの「むなしさ」を解消するのは、決して簡単なことではないかもしれません。
ですが簡単に解消されることのない「むなしさ」の問題を解決するヒントは、「むなしさ」から目を背けるためにお金を使って特定の商品を買い、一時的に満たされることではなく、まず、
「自分のむなしさから目を逸らさずに、それをしっかり見つめること」
にあるのだと思います。
そしてそこから、今度は、
「あくまで自分自身の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ」
が必要になってくると諸富氏は述べています。
自分自身で「むなしい」という気持ちに向き合うのは、もしかしたら「つらい」かもしれません。
しかし、もし他人ではなく、自分で生きる意味をどこまでも問い求めていくことが出来れば、時間はかかるかもしれませんが、少しずつ、生きることのむなしさが解消されていくように思うのです。
「むなしさ」を解消するヒント<いのちの働き>
ここまで「むなしさ」を解消するヒントを考えるために、『〈むなしさ〉の心理学』の著者である諸富祥彦氏が述べる<いのちの働き>というものに触れてみました。
なぜここで<いのちの働き>というものを取り上げたのかといえば、実は私自身も、20代のあいだは、「何のために生きるのか」「生きていることはむなしい」「どうせいつか死んでしまう」という考えに悩まされており、諸富祥彦氏と同じように、<いのちの働き>に気づくことで、自分が抱えている問題を解決していったという経緯があるからです。
私自身の体験は、諸富氏のように劇的なものではないかもしれませんが、ひたすら文学や哲学、宗教、精神医学に関する本を読み、考え、やがて、<私>という存在は、私自身の力のみによって生きているのではなく、細胞内のミトコンドリアや<他者>の言葉など、見えない何かによって生かされているのだ、ということに気づくことでした。
そして、この<いのちの働き>・「見えない何か」とは、科学を中心とした合理的な思考だけでは捉えきれない、生命そのものともいうべき<何か>なのであり、ただ頭で考えているだけでは、なかなか気づくことが出来ない性質のものなのです。
<いのちの働き>に気づくには?
いま<私>が生きていられるのは、「私たちの思い煩いとは関係なく、からだの内側で勝手に生き働いている何か」、すなわち<いのちの働き>のおかげだと気づくことが、人生における満たされない「むなしさ」を解消するヒントになるように思うのです。
なぜなら、<いのちの働き>とは、生きている限り、誰にでも最初から共通して与えられているものだと言えるからです。
では、この<いのちの働き>に気づくにはどうしたら良いのでしょうか?
その答えとしては、胸に手を当てて心臓の鼓動を感じたり、お腹に手を当てて深くゆっくり呼吸してみたりすることで、<からだ>は私が頭でいろいろ考えることと関係なく、常にあたたかく生きているという<内臓感覚>を実感してみることが挙げられます。
また、<いのちの働き>を感じるための三つのレッスンとして、以下が挙げられます。
- 自然に触れる
- ゆっくりとした運動を行う(ヨガなど)
- <食べること>を意識する
この3つに関しては、こちらの記事をご参照ください。
以上この記事では、諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』(講談社現代新書)という著作を取り上げ、むなしさを解消するヒントについて述べてみました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(^^♪