AIが自分の代わりに何でも優れた仕事をしてくれ、自分がいまやっている仕事は廃業になるのではないか……そう考えることはありませんか?
かくいう私自身、生成AIの上手な文章と構成に、ライティングの仕事のやりがいが奪われるのではないかと不安になることも……💦。
しかし何かを成し遂げた達成感や充実感、幸福感による「生きる喜び」、満ち足りた感覚は、何によってもたらされるのだろうと考えることがあるのですが、その答えはおそらく「身体性」、すなわち、「スマホ脳」や、デジタル化・オンライン化が進む社会において、自身の思考や運動をテクノロジーに委ねたり、オートメーションに精神活動を預けたりするのとは別の仕方にあるのに違いないのです。
そういうわけで今回は、そのようなことを考えさせられる『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』(ニコラス・G・カー 著 篠儀直子 訳 青土社)という一冊を紹介していきたいと思います。
まず、ニコラス・G・カーの『ネット・バカ』では、
オンラインでわれわれが、何を行なっていないかも、神経学的に重大な結果をもたらす。発火をともにするニューロンはつながらない。ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読書の時間を押しのけるにつれ、一口サイズの携帯メールをやり取りするのに用いる時間が文や段落の構成を考えるのに用いる時間を締め出すにつれ、リンクをあちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ、旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。脳は使われなくなったニューロンやシナプスを、急を要する他の機能のために再利用する。新たなスキルと視点をわれわれは手に入れるが、古いスキルと視点は失うのである。
『ネット・バカ』 ニコラス・G・カー 著 篠儀直子訳 170‐171頁
と、「神経可塑性に関する近年の発見」について述べられていることが印象的なのですが、
読書の話題だけではなく、人とのコミュニケーションや働くこと(家の掃除なども含めた労働全般)、移動することなどにおいて、「アプリ」をはじめとしたテクノロジーを介入させることで(常にスクリーンを眺めている状態)、自分の身体で「生きること」(たとえばGPSに頼らず、ぐるぐると自分の足で森のなかをさ迷ったうえに、目的地を発見するような)、
すなわち生きていることの実感が失われてしまうのではないのでしょうか?
また皮肉なことに、オートメーションによって自分たちの生活が便利になるどころかバグや遅延に振り回され、かえって余計に労力を費やさなければならないということがしばしば起こるのです(OSのアップデートもまた然り)。
そしてニコラス・G・カーは『オートメーション・バカ』のなかで、
コンピューターの助けを借りてタスクに取り組むものは、「オートメーション過信〔automation complacen-cy〕」と「オートメーション・バイアス〔automation bias〕」という、二つの認知的不調に陥りがちである。
と述べています。

『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』
オートメーション過信は、コンピューターがわれわれを偽りの安心感へと誘いこむことで生じる。機械は不具合なく動くだろう、難題にもすべて対処してくれるだろうと信じこむと、われわれの注意力はさまよいはじめる。仕事から、または少なくともソフトウェアが対処している部分の仕事からわれあれは離れ、その結果、何らかの不具合を知らせるシグナルを見落としてしまう。コンピューターに向かっているときのこの種の過信は、ほとんどの人が経験している。
(『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』 ニコラス・G・カー 著 篠儀直子 訳 91頁)
オートメーションバイアスは、オートメーション過信と密接な関係にある。これは、モニターに流れる情報に過度の重みを置いた場合に忍び寄る。その情報が間違っているとき、あるいはミスリーディングであるときも、それを信じこんでしまうのだ。ソフトウェアへの信頼が非常に強力であるため、自分自身の感覚をも含め、他の情報源を無視してしまう。誤っていたり、情報が古くなっていたりするGPSなどのデジタル・マッピング・ツールにやみくもに従ったおかげで、迷子になったり、同じところをぐるぐる回ったりしたことのある人なら、オートメーション・バイアスの影響がわかるだろう。
(同 93頁)
過信やバイアスにわれわれが陥りやすいことは、オートメーション依存が、責任放棄と責任忘却の両方によるエラーを導く理由の説明になっている。不正確あるいは完全な情報をわれわれは受け入れ、それに基づいて行動したり、または、見たはずの物事を見なかったりする。だが、コンピューター依存による意識や注意力の弱まりは、ひっそりと進む、もっと油断のならない問題をも指摘している。オートメーションはわれわれを、行為者から観察者へと変える傾向があるのだ。操縦桿を握る代わりに、われわれはスクリーンを見つめる。この移行は人間の生活を楽にしているかもしれないが、専門技術や知識を学習し、発達させる能力を抑制しうるものでもある。所与のタスクにおいてわれわれのパフォーマンスを向上させているにせよ衰退させているにせよ、長期的に見ればオートメーションは、われわれの既存のスキルを低下させ、新たなスキルの獲得を阻むことになるかもしれない。
(同 97頁)
特に「第4章 脱生成効果」において、
オートメーション性、生成、フロー。これらの知的現象は別々のものであり、複雑であり、その生物学的原因は曖昧にしか理解されていない。だがそれらはみな関連し合っていて、われわれ自身についての重要なことを教えてくれる。能力を生み出す種類の努力—―困難なタスクと明白なゴール、直接的フィードバックに特徴づけられる――は、フロー感覚を与えてくれる努力と非常に似ている。それは没入的な経験だ。その特徴はまた、受動的に情報を取り入れるのではなく、能動的に知識を生成するよう強いる種類の作業にも通じる。スキルを磨く、理解を拡張する、個人的な満足と実現を達成するという点がみな一致する。そしてどれもみな、個人と生活との、身体的かつ精神的な、緊密なつながりを要求する。
(同 112‐113頁)
と述べられているように、本書『オートメーション・バカ』(原題『The Glass Cage』 2014)の内容は、AIが劇的に進化している2025年以降でも、<効率>という名のもとに急速にデジタル化やリモート化が進む世界の空虚さを考え、乗り越えるための示唆に富むと思われるのです。
オートメーションが引き起こす、または悪化させる社会的・経済的問題は、ソフトウェアをさらに投入すれば解決するというものではない。われらが生命なき奴隷たちは、快適さと調和に満ちた楽園へと連れていってはくれない。問題を解決する、あるいは少なくとも軽減したいのであれば、その複雑さのすべてを含めてこれと取り組む必要があるだろう。未来の社会の幸福を確かなものにするためには、オートメーションに制限をかけねばなるまい。これまで考えることすらできないと、少なくともビジネス界においては見なされてきた考えをも、受け入れねばならないかもしれない――機械よりも人間を優先することを、である。
(同 291頁)
『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』 目次
第1章 乗客たち
第2章 門の脇のロボット
第3章 オートパイロットについて
第4章 脱生成効果
第5章 ホワイトカラー・コンピュータ
第6章 世界とスクリーン
第7章 人間のためのオートメーション
第8章 あなたの内なるドローン
第9章 湿地の草をなぎ倒す愛
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(^^♪