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当ブログでは令和の時代の健康と幸福のために、マインドフルネス瞑想をとりいれることをオススメしていますが、今回は、「マインドフルネス」の本質や、そもそもマインドフルネス瞑想はビジネスで活用するのための道具にすぎないのか、ということを考えるために、『光の中のマインドフルネス 悲しみの存在しない場所へ』(山下良道 著 サンガ)という1冊を取り上げてみたいと思います。
近年、【マインドフルネス】の効果は、ビジネスや医療の分野で注目され、活用されていますが、そもそも【マインドフルネス】とは何を意味するのでしょうか?
雑誌やテレビ番組などで、マインドフルネスが特集されると、よくマインドフルネス(Mindfulness)は科学的な手法に基づき、宗教とは無関係だと説明されていることが多いですが、そもそも「マインドフルネス」の起源は仏教にあることを、憶えておく必要があるように思います。
そして、仏教における本来的な意味での【マインドフルネス】は、ビジネスにおいて、仕事の効率を上げたり、集中力を高めたり、収入をアップさせたりするといった目的を越える、人生の根本や心の本質に迫るものであるのです。
そのため、マインドフルネスを深めれば深めるほど、単なる流行や、企業によるビジネスのためのツールとして閉じ込めておくことは出来ないように思います。
「マインドフルネスのそもそもの始まり」とは?
日本の禅宗での坐禅修行や、ビルマのテーラワーダ仏教の瞑想修行を経て、現在、鎌倉一法庵住職をされている山下良道氏の、『光の中のマインドフルネス 悲しみの存在しない場所へ』においてはまず、そのような、(グーグルでの採用などをきっかけとした)流行りとしてマスメディアで扱われるアメリカ由来の「マインドフルネス」と、本来の、宗教性の問題も含めた【マインドフルネス】とのギャップから生じる違和感について述べられています。
この『光の中のマインドフルネス』は、これまで描写してきたような「現在のマインドフルネスを巡る状況」に、なんとなく違和感を覚えている人のための本です。マインドフルネスが、ビジネス戦士をつくるためだけに利用されていて、いいのだろうか? という疑問を持っている人のための本です。仕事の効率が上がってさらに猛烈に働いて、多少給料が上がることも良いけれど、でももっと大事なものを探求するのが、本来のマインドフルネスではないのかと、薄々感じている人のための本です。
(山下良道『光の中のマインドフルネス』 p6)
また、山下良道氏は、「マインドフルネスのそもそもの始まり」は、「今から約二五〇〇年前のインドのブッダヤという小さな村が舞台」であり、
「村の菩提樹の木の下で座ってらした仏陀が発見されたものこそが、マインドフルネスの最初の最初だったのです。仏陀によって発見されたその真理は、インドの古代語であるパーリ語で「サティ」と名付けられました」
としたうえで、
マインドフルネスとは、仏教の教えの一部などではなくて、最初の最初から仏教そのものであることが、おわかりいただけたでしょう。このマインドフルネスのオリジンを理解していただければ、西洋諸国はともかくとして、聖徳太子以来長きにわたって仏教国であり続けた日本で、「宗教性をとりのぞいたマインドフルネス」がどういう意味をもつのかが明らかですね。今のままではマインドフルネスがいたずらに痩せ細ってしまわないでしょうか。この状況を変えるべく、もう一度、マインドフルネスを、本来のオリジンに基づく、もっと豊かなものに戻したいというのが、私の根本的な願いなのです。
(山下良道『光の中のマインドフルネス』 p7)
と述べています。
マインドフルネスを表層的に理解してしまうと、どうしてもその本質からは遠ざかる。
しかしその一方で、「マインドフルネス」と「宗教」の関係に対しては、「「宗教」が信用されていない現実は確かにある」としたうえで、「マインドフルネスの紹介のとき、あえて「宗教ではありません!」という注釈がつけられてきた」ことにも「正当な理由もあったことは、認めざるを得ません」としています。
そして宗教が「怪しい」という疑いの目を向けられてしまうのは、「涅槃、お浄土、神の国」という「本当に存在するかどうか自分では直接確かめられないもの」が、「テクスト(経典、聖典)」には「書いてあるからというだけの理由で、あたかもそれが真実であるかのように話されてきた」という「宗教的言説」にあるとしています。
このあたり、「宗教」という言葉からどのような事柄を連想するかは、人それぞれですが、現代の日本社会においては、「宗教」をすぐに科学的ではないから「怪しい」といったように、ある種の偏見をもって捉えてしまうことは仕方がないことかもしれません。
ですが、
マインドフルネス⇒仏教⇒宗教⇒科学的ではないから怪しい
といった判断を早急に下してしまい、マインドフルネスを単にビジネスシーンで活用するためのツールとして閉じ込めてしまうのは、非常にもったいないことであるし、どうしても【マインドフルネス】の本質から逸れていってしまうようにも思うのです。
山下良道氏も、本書『光の中のマインドフルネス』のなかで、
マインドフルネスとは何か。ヴィッパサナーとは何か知ろうとするなら、一回ぐらいヴィパッサナー瞑想のコースに参加するだけでは、十分ではありません。本気で何年も何十年もやらなくては無理です。
(中略)
切実な理由からヴィパッサナーをやる必然性はないのに、単なる興味本位で、ヴィパッサナー瞑想コースに参加するとどうなるでしょうか。当然、深いところに入っていけなかった自分のその経験から「ヴィパッサナーは、結局は主体と客体を分けるものだよね」という結論を出して「マインドフルネスはたいしたことない」となってしまう。
(山下良道『光の中のマインドフルネス』 p52~53)
本気にならないまま軽くマインドフルネスに触れて、誤解したままになるのは実に惜しいことです。ただ、このあたりにマインドフルネスというものの持つ不思議さがあります。仏教の核心といわれるマインドフルネスに表面的に触れると、あまりたいしたものとは思えない。なぜそれが、仏教の最重要な教えであるのかがぴんとこない。
マインドフルネスが表面的に誤解されやすいもので、その本当、本質を知るには少し遠回りをする必要があるようです。
(山下良道『光の中のマインドフルネス』 p53)
と述べていますが、本気で何十年も続けるのは簡単ではないとしても、少しのあいだ実践しただけで、マインドフルネスを表面的に誤解してしまうと、その本質はどうしても遠ざかってしまうのだと考えられます。
『光の中のマインドフルネス』は瞑想の本質について的確に述べられている。
今回は、「マインドフルネス」の本質や、そもそもマインドフルネス瞑想はビジネスにおけるただのツールにすぎないのか、ということを考えるために、『光の中のマインドフルネス 悲しみの存在しない場所へ』(山下良道 著 サンガ)という1冊を取り上げてみました。
私自身、本書を初めて手に取った時、「瞑想」の本質についてかなり的確に述べられているという感想をもちましたが、読んだ際にどのような感想をもつかは、もちろん人それぞれだと思いますし、瞑想というものの性質上、なかなかその内容が腑に落ちないという方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、マインドフルネスに関心がある方で、ビジネスシーンでの利用目的だけではなく、仏教が起源の【マインドフルネス】の本質とはどのようなものなのかについて考えたいという方には、ぜひ手に取ってみていただきたい一冊です。
なお、本書のタイトルにある、「光の中のマインドフルネス」とは何を意味するのか、という肝心な部分については、この記事ではふれることはできませんでしたが、その中身については、また別の機会に譲りたいと思います。