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普段から自分自身に対して厳しい。そういう時は「セルフ・コンパッション」を始めてみませんか?
前回の記事では、自己批判や自己否定をしてしまう理由には、幼少期にどういう養育の仕方をされたのか、親や養育者の存在が関係しているということについて述べました。
しかし親や養育者のせいにして済む話ではなく、自分自身を肯定することが難しい理由には、日本の社会や歴史的文化、イデオロギー(人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系)なども関係しているように思います。
たとえば、学校のテストの点数が低いと、子どもを𠮟りつける親や教師がいますが、「子どもにとって有意義なのはどういう教育のあり方か」という観点よりも「より良い学校」「より良い大学」「より良い会社」に入るための偏差値教育が未だに根強いからだと思われます
(ちなみに、ここでいう「良い」とは、本当に良いというわけではなく、競争社会のなかで学歴や年収で人を判断する風潮のように、「数値やスコアが高い」=「良い」とされているということです)。
そして親や教師が思いやりをもって伸び伸びと子どもを育てることが出来ないとしたら、勉強が出来ない「落ちこぼれ」を出してはいけないというプレッシャーにさらされていて、いつもどこか不機嫌であるかもしれないのです。
もちろん今は以前よりも生き方の多様性がある程度認められてきているのかもしれませんが、私が学生時代の頃は(就職氷河期)、まだまだ高校や大学を卒業したら会社に就職するのが当たり前であり、そういった「みんなと同じ」レールから外れることに内心恐怖を感じていました。
自分を思いやれない完璧主義という罠。

つまり、自分を否定してしまうという場合、親や教師、会社の上司、あるいは実体のない「世間」などの視点から、自分自身を評価してしまっているかもしれないのです。
より具体的には、親や教師や上司、もしくは配偶者などが掲げる「こうあるべき姿が正しい」という理想と自分自身を照らし合わせて、それにそぐわない自分、評価されない・認めてもらえない自分を否定したり批判したりしてしまうのです。
また親や教師や上司が期待した通りの結果を出せなかったことに罪悪感を抱いてしまう場合もあるかもしれません。
このことについて、たとえばマッツ・ビルマーク、スーサン・ビルマーク夫妻も、『自分を大切にする生き方』(齋藤慎子 訳)という本のなかで、
自尊心を傷つけるような、必要以上に批判的でネガティブな気持ちは、ごく幼い頃から始まっている可能性があります。
不幸な環境や出来事のために、拒絶感、場違い感、とけ込めない感じが持つようになったのかもしれません。
めったに褒められなかった、理不尽に責められたり非難されたりしていた、虐待すらされていた人もいるかもしれません。そうした体験から、自分には取り柄がない、愚か者、役立たず、無能、と決めつけるようになったのかもしれないのです。
こうした決めつけが、自分を価値のない、つまらない人間だと考えさせているのです。自分が考えていることを思い切って言えないのは、受け入れてもらえないのが怖いから、あるいはすべて完璧でなければならないと思い込んでいるからです。
と述べています。
そしてこのことには、短所や欠点、失敗を積極的に認めようとしない、いわゆる「完璧主義」も関係しているように思います。
この「完璧主義」とは、何事も完璧でなければならないという考え方のことで、
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失敗や不完全さに対して寛容ではない。
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自分や他人に厳しく、完璧を求めすぎるあまり、疲弊することがある。
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期待が満たされないと強いストレスや自己否定につながることがある。
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成果や細部へのこだわりが強く、妥協を嫌う。
といった特徴があります。
ちなみに公認心理士の有光興記氏によれば、この完璧主義には、「自分に向かうもの」「他者に向かうもの」「他者から求められるもの」の三つがあるといいます。
「自分に向かうもの」……「完璧であろうとする自分の中の基準に現実が見合っているかを意識する傾向で、現実の自分が自分の中の基準に満たないことで苦しみ」続ける。
「他者に向かうもの」……「他者に完璧を求める傾向」
「他者から求められるもの」……「他者から要求される基準に照らし合わせる完璧主義」「自分に向かうものと同様に悩みや苦しみの種」になる。
(有光興記『自分を思いやる練習』より)
有光氏はこのうち、「自分に向かうもの」「他者から求められるもの」が苦しみの種になるとしています。
また有光氏は、「人からの評価を意識すると、自分が本来の実力を発揮できる状態から離れ、人から見て完璧な姿を見せようと努力することになり」、「こうした努力はる程度は報われる」ものの、
「完璧に物事を遂行するという目標を持っていたら、それは実現不可能となり、目指せば目指すほど「達成できない」挫折感を経験し続ける」
ことになると述べています。
実は私自身も、若い頃は仕事中は常に正確で完璧であることを求め、それゆえミスしたり失敗したりするたびにへこんでいましたが、そもそも勤務先の仕事であれ家事であれ、ヒトは勝手な思い込みや認知バイアス(心の偏った性質)によって、どうしても過ちを犯してしまう不完全な存在なのです。
したがって、何でも常に100%完璧にこなすこと自体が不可能なのです。
ところが職場や地域のイベント、SNSなどで、仕事や家事、育児など、自分よりも完璧に何でもこなしている(と思えるが実際はそうではない)人の姿を見ると、その人と比較して、「失敗ばかりしてしまう自分はダメな人間だ」と感じてしまうのです。
しかし、日々の「セルフ・コンパッション」の実践は、そういった内なる批判者による、失敗したことへの「責め」をやわらげるのに役立ってくれるのです。
たとえば有光興記氏は、『自分を思いやる練習』のなかで、
「セルフ・コンパッションは、完璧に物事を成し遂げられなくても、人を幸せにして、自分も幸せになれる方法です」
「セルフ・コンパッションの実践では、過去の過ちを責めるのではなく、なぜ間違いや失敗を犯してしまったのかを理解し、その中での自分の頑張りを認めてあげます」
と述べています。
またクリスティン・ネフ博士が『セルフ・コンパッション』のなかで、「完璧主義者」について、「自分自身のために高い基準を設定し、それを達成しようと頑張ることは、生産的で健全な特性になりうる」としつつも、一方で、
完璧主義者は、物事を完全に正しく行なおうとして、とてつもないプレッシャーと不安を体験し、そうできなかったときには打ちのめされる。完璧主義者は非現実的に高い期待をもつが、それはつまり、必ず失望するということである。物事を白か黒か――自分は完璧か、無価値か――で判断することによって、完璧主義者は常に自分に不満を抱えている。
と述べています。

そして、
自分に優しくするということは、単に自己評価しつづけるのをやめ、自分を見下すような内的な実況中継を当たり前のことだと思うようになっているが、自分の欠点や失敗を責めるのではなく、それらを理解して認めなくてはならない。
(中略)
しかし、自分に優しくすることは、単に自己評価をやめることを意味しているだけではない。積極的に自分を認め、困っている親しい友人に接するように自分自身に対応することも必要である。
とし、
思いやりや優しさや共感を、自分から自分に注いで心を穏やかにするのである。真の癒しはそのようにして生まれる。
また、もし今の苦痛が自分自身のミスが原因で生じているのなら、今こそまさに、自分を思いやるべきときである。
と述べていることは傾聴に値します(1)。
特にセルフ・コンパッションを実践していくうえで大切なのは、
「自分に優しくすることは、単に自己評価をやめることを意味しているだけではない。積極的に自分を認め、困っている親しい友人に接するように自分自身に対応すること」
であるという点なのです。
注釈
1 『セルフ・コンパッション [新訳版] 』 クリスティン・ネフ 著 浅田仁子 訳 金剛出版
自分に優しくするということは、単に自己評価しつづけるのをやめ、自分を見下すような内的な実況中継を当たり前のことだと思うようになっているが、自分の欠点や失敗を責めるのではなく、それらを理解して認めなくてはならない。容赦ない自己批判によって自分がどれだけ傷ついているかを明確に見きわめ、内なる戦争を終結させることは必須である。
しかし、自分に優しくすることは、単に自己評価をやめることを意味しているだけではない。積極的に自分を認め、困っている親しい友人に接するように自分自身に対応することも必要である。つまり、自分自身の苦痛に心を揺さぶられてもいいということであり、ちょっと立ち止まり、「今、本当につらくてたまらない。どうやって今のこの自分を大切にして、慰めたらいいんだろう?」と言ってもいいということである。思いやりや優しさや共感を、自分から自分に注いで心を穏やかにするのである。真の癒しはそのようにして生まれる。
また、もし今の苦痛が自分自身のミスが原因で生じているのなら、今こそまさに、自分を思いやるべきときである。
(42頁)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊

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