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ブッダの教えでこころをラクにする生き方、始めてみませんか?
ブッダの教えや原始仏教について学んでみることは、心を成長させるためのたいへん有意義な時間の過ごし方です。
前回の記事では、心の苦しみを生み出す原因「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」のうち、「貪」について述べました。
今回は二つ目の「瞋(じん)」についてです。
「瞋(じん)」とは、「瞋恚(しんに)」、すなわち「怒り」のことです。
「怒り」は困難で不都合な状況をはねのけたり撃退したりするために湧き上がる自然な反応ですが、ストレスでイライラしたり、ついカッとなったりすると、次第に自分自身を制御することが難しくなっていきます。
もし怒りを冷静にコントロール出来なければ、炎が燃え広がるように感情的になり、物を破壊したり、他人を攻撃したりしてしまいます。そして結果的には、周りだけではなく自分自身も最悪な気分に陥ってしまいます。
怒りには、嫌悪、恨み、嫉妬なども含まれる。
また怒っている人に接すると、相手の怒りが自分自身に伝わることで「対岸の火事」ではいられなくなり、冷静さを失ってつい感情的に反応してしまうことがよくあります。
ちなみに「怒り」は、パーリ語で「穢れる」「濁る」を意味する「ドーサ」という暗い感情が強くなったものであり、怒ると、
「心から喜びが消えてしまう」
と、スリランカ上座仏教のスマナサーラ長老は『怒らないこと』(サンガ新書)のなかで述べています。
さらにミャンマーの僧侶であるウ・ジョーティカ師によれば、「ドーサ」という一語には、嫌悪、恨み、罪悪感、恐れ、不安、嫉妬、後悔なども含まれているといいます(参考 ウ・ジョーティカ『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』 新潮社)。
怒りとは、私は正しい、相手は間違っていると思うことで生じる。
このような「怒り」について『いきなりはじめる仏教生活』のなかで釈徹宗氏は、「許せないから怒りが発生する、と考えたほうがわかりやすい」として、「怒り」を「不寛容」という言葉で説明していますが、実際のところ私自身も、自分の中のルールや尺度を他人に当てはめようとしてうまくいかないと、怒りの気持ちが湧いてくることが多いです。
特に社会生活上のマナーやルールに関して、自分にとっての正しさが相手に通用しないと、怒ってしまうケースは多々あります。
その根底にはやはり「許せない」という気持ちがあるのだと思います。
人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。相手の方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。
(アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』 32‐33頁)
怒っている時ほど、「ゆるす」のは難しい。
反対に「ゆるす」という寛容な気持ちを持つことが出来れば「怒る」ことは出来ません。
しかしながら怒っている時ほど、怒りの矛先である相手や自分自身を「ゆるす」ことは難しいのです。
そのため大切なのは、まずは自分自身のなかに「怒り」が発生していることに気づき、その「怒り」を観察することです。
怒りをよく見つめてください。そこに誤解(無智)、拙さ(未熟さ)、社会環境、隠れた恨み、心の癖(条件付け)などの原因が見えてくるはずです。これらの原因は自分の内にあると同時に、怒りが生まれるおもな原因となった相手にも存在します。観察を入念に行うのは、本当に見ること、理解することができるようになるためです。よく見て理解することで、私たちは怒りにつきものの苦しみから自由になれます。見つめること、理解することは、慈しみと思いやりにつながります。それは菩薩の慈悲の妙薬の一滴であり、感情と思考を静めてくれるのです。
(ティク・ナット・ハン『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 山端法玄、島田啓介 訳 野草社 154‐155頁)
そして怒りを観察して少し冷静になることが出来たら、次に「ゆるす」という選択肢を選び取ることで、自分自身を苦しめることをやめてみるのです。
許すことは弱さのしるしではありません。
それは深いレベルでの心の強さなのです。
許すことは、心の強さです。私たちは強い。
許せるだけ、手放せるだけの強さがあるのです。
私はお前を自由にしよう、解放しよう、
好きなところに行きなさい。
さあ、これで私も自由になった。(ウ・ジョーティカ『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』 魚川祐司 訳 新潮社 107‐108頁)
今回の記事では三毒のうちの「瞋」を取り上げました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます(^^♪
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