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当ブログでは令和の時代の健康と幸福について書いていますが、今回は大島直行氏の『縄文人の世界観』という本を、これからの令和の時代の幸福を考えるためにご紹介していきたいと思います。
2018/7/3~9/2の期間、東京国立博物館で特別展「縄文-1万年の美の鼓動」(縄文展)が開催されたこともあり、近年、持続可能な社会としての縄文時代への関心が高まっているように思います。
そして、縄文時代や縄文人の思想に興味のある方にぜひ手に取って読んでみていただきたいのが、大島直行氏の『縄文人の世界観』(国書刊行会 2016年)という一冊です。
本書を読んでみると、私自身、縄文人が持っている「非合理的思考」や縄文人の生き方から学ぶことは多いという感想をもちました。特に現代人の常識から縄文の世界観を解釈しようとすると、縄文時代についての理解が誤ってしまう可能性が高いのではないかと、本書を読んで思うようになりました。
また、縄文人は自分たちの世界を何でも、「再生」のシンボルとして表現したということも分かってくるのです。
著者の大島直行氏は、札幌医科大学客員教授であり北海道考古学会会長などを歴任しており、ほかに『月と蛇と縄文人』『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか』などの著作もありますが、その大島氏の『縄文人の世界観』での主張は一貫しています。
それは、縄文人は土器、土偶、祭祀具、住居、施設など、様々なものを「再生」のシンボリズム(「月ー子宮ー水ー蛇」)として表現したということです。
なぜ縄文人が、再生のシンボリズムを、道具だけでなく施設にまで壮大なスケールで表現したのか、そのわけも理解できるのではないかと思います。それは、再生に対する果てしない希求(信仰)にほかなりません。縄文人にとっては、再生信仰こそが、すべてだったのです。
(大島直行『縄文人の世界観』 国書刊行会 p244)
縄文人の思想を支えているのは、非合理的思考がつくり出した神話的世界観です。神話的世界観をバックボーンに存在し続けた縄文人の思想とは、果たしてどのようなものだったのでしょうか。
それは「月のシンボリズム」に象徴されるように、「死の否定」への理論武装にほかなりません。縄文人にとって、生存の証は〝死なない〟ことだったのです。自然科学や人文科学的な知見をもたない彼らの理論武装は、ただひたすら「野生の科学」としての神話を研ぎ澄ますことでした。しかし、それは見事なまでの理論武装でした。そして、彼らが神話的な世界観を背景に組み立てたのが、再生のための思想だったのです。
(大島直行『縄文人の世界観』 国書刊行会 p253)
縄文人から学ぶべきはこれからの時代を生き抜く智慧。
縄文人は「月ー子宮ー水ー蛇」といった「不死」「再生」のシンボリズムの体系を、世界観として土器や住居などに表現してきたようです。
縄文土器や土偶には円や楕円、渦巻きなどが多いのはそのことを意味すると、大島氏は縄文人の世界観を読み解きます。
そして大島氏が縄文人の思考を一貫して非合理的思考優先で読み解くのは、これまで考古学者の多くが、縄文人の非合理的思考に目を向けるよりも、利便性などをはじめとした合理的思考を前面に出した現代人特有の見方でしか、縄文人の世界観を読み解けなかったことに異議を唱えようとしているからです。
これまで、縄文時代がなぜ一万年間ものあいだ続いたのかという問いには、誰も明快に答えられませんでした。せいぜい豊かな環境にあったから、というステレオタイプの回答が関の山でした。縄文文化が長い間継続したのは、縄文人以外の誰も経験したことのない根源的な思想である「再生思想」を、この日本列島において確立し、それを継続したからにほかなりません。
人間は、哲学、宗教、科学がなくても知的に生き抜くことができるということを、私たちは縄文人から学ぶべきです。
(大島直行『縄文人の世界観』 国書刊行会 p254)
「非合理的思考」とは?
ちなみに「非合理的思考」とは、私たち現代人が当たり前のように行っている「合理的思考」とは、正反対に位置する思考形態であり、一見筋が通らない思考形態のことです。
たとえば、何か悪いことや不運な出来事に遭遇した際には、心からお祈りしたり、占いやおまじないに頼ったりすることがあると思います。これらは科学的立場から見たら、それこそ論拠や科学的根拠が乏しい荒唐無稽なことのように思われがちですが、このお祈りや占い、おまじないなどは、実は「非合理的思考」と深く関係しているのではないでしょうか?
人間は、誰もが合理的思考だけでなく非合理的な思考能力をも併せ持っています。人間は、生きる時代や地域に合わせて、二つの思考能力を使い分けてきただけなのです。二つの思考能力の使い分けは、生まれ育った自然環境や社会環境によって左右されます。ただし、非合理性が原始的だと解釈するのは偏見に過ぎません。
(大島直行『縄文人の世界観』 国書刊行会 p235)
私たち現代人は、合理的思考をよしとして、非合理的なものの考え方を極力排除しようとします。けれども、このように合理的思考が卓越するのは、じつは、農耕社会や牧畜社会が出現してからなのです。自然環境に手を加え、社会的にそれを維持しようとする場合、どうしても合理的思考でなければ、システマティックに事が進まないからです。日本列島で合理的思考が優越するのは、およそ二二〇〇年前の弥生時代からなのです。
(同)
社会を生きていくうえで合理的思考は必要だとは思いますが、それだけではなく、縄文という古代日本の叡智に目を向け、そこから非合理的思考を学んだり感じとってみたりすることも、自らの世界観を変えて、これからより良い人生に送っていくためには大切になってくると感じるのです。