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誰ともつながっておらず、<孤独>であることには、社会的孤立による孤独死など、どことなくネガティブな印象がつきまとっているような気がします。
しかし、独りである自分から目を背けるのではなく、「孤立」ではない「孤独」というものに向き合い、自分の孤独を受け容れたうえで、新しいつながりを発見していくことは大切であるように思います。
そういうわけで、今回は心理カウンセラーであり、『孤独の達人 自己を深める心理学』(PHP新書)や『〈むなしさ〉の心理学』(講談社現代新書)などの著作がある諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』という本を取り上げたいと思います。
この諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』は、2001年に出版された本ですが、読んでみるとその内容はまったく古びておらず、孤独感にさいなまれ、孤独がつらいと感じている人にとっては、いま読んでも心を打つものがあると思います。
今の時代は、スマートフォンやSNS、LINEで簡単に誰かとつながることは出来ますが、しかし、だからといって、インターネットのつながりによって本当の意味で孤独が癒されたり、心に抱えている悩みが解消されたりするケースは、案外少ないのではないでしょうか?
また、現代社会においては、つながるためのツールが身の回りにたくさんあるといっても、実は<孤独>であること、<ひとりでいること>、あるいは、自分の気持ちをきちんと受け止めてくれる真の話し相手がいない、ということに悩んでいる方は意外と多いのではないでしょうか?
「孤独」や「ひとり」はそもそもいけないことなのか?
しかし<孤独>であることや、<ひとりでいる>ことは、そもそもいけないことなのでしょうか?
この孤独であることの悩みについて、著者の諸富祥彦氏は、『孤独であるためのレッスン』のなかで
「ひとりでいるという事実よりむしろ、「あいつはひとりだ」「ひとりでいる変なヤツだ」と周囲や世間から思われているまなざしを気にかけ、自分で自分を追い詰めている」
と、述べています。
つまり、孤独は良くないことだとする世間の目を気にするあまり、劣等感をつのらせ、その結果、「自分の孤独を、ひとりでいることを肯定的に受け止め、ひとりのままで人生をエンジョイ」出来ていないというのです。
そのため、著者の諸富祥彦氏は本書『孤独であるためのレッスン』を以下のような方に読んで欲しいと述べています。
- いつもまわりに合わせて生きてきて、〝自分〟というものを意識することがあまりない。
- 他人の視線や評価が気になるから、〝自分〟を出すことが苦手だ。
- 自分〟がわからなくなることがある。〝自分〟がほんとうにしたいことは何か。自分でも、わからなくなることがある。
- ひとり〟になるのがこわいから、いつも誰か仲間の中にいる。
- いつも友だちや仲間に囲まれて生きてきて、〝ひとり〟になったことがない。だから〝ひとり〟になる人の気持ちもわからないし、〝ひとり〟になるなんて考えられない。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p17より抜粋)
- いつもひとりでいることが多い。仲間にうまくなじめない。自分は人と違う。何が劣っているのでは、と思ってしまい、自信がない。
- ずっとフリーターで生きている。どこにも所属していない自分を、世間は変な人間のように思っているに違いない。
- 三〇歳をすぎても結婚する気になれない。けれど親や周囲の人の視線が気になる。
- 結婚はせず、子どもを産んで、シングル・マザーとして育てているが、世間の冷たい視線や無理解を感じる。
- 今、不登校とか、出勤拒否の状態になっている。そんな自分を責めてしまう。
- しばらく家にひきこもっていて、こんな自分は世間から冷たい目で見られている、と感じてしまう。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p18より抜粋)
大切なのは、孤独の価値を積極的に見出し、孤独を受け容れること。
ちなみに、私自身は、<孤独>を感じることは少なくなりましたが、それでも<孤独>を感じることは、時々あります。
しかし私自身は、<孤独>は悪い事だとするよりも、自分のなかで孤独を肯定し、孤独の価値を積極的に見出し、孤独を受け容れることのほうが大切だと考えるようにしています。
もちろん、どんな時もひとりぼっちで生きる、ひとりのちからで頑張る、という生き方を推奨するわけではありません。
諸富祥彦氏は、「心のうちにも対話の相手を持たずに文字通りたったひとりで―孤独を貫くことができるほど、人間は強い生き物ではない」と述べていますが、実際のところ、現実社会にも、心のうちにも、対話の相手がいないというのは、生きていくうえでかなりしんどいのです。
ですが、かといって、ちょっとした孤独に耐え切れず、安易にインターネットの世界のなかで簡単に誰かとつながろうとしてしまっては、自分が<孤独>によって鍛えられることは決してありません。
自分の孤独を受け容れるというのは、口で言うほど簡単ではないのかもしれませんが、あえて自分で孤独を引き受けることによって、今まで自分で気づかなかった<誰か>や、見えなかったり知らなかったりする<何か>と新しくつながる可能性が、反対に生まれてくるようにも思うのです。
〝ひとり〟でいることのできない人間関係は、たいへん不自由なものです。絶えず他人の視線を気にし、他人と自分を比較し、評価し続ける、がんじがらめの人間関係です。人間関係の〝評価〟や〝しがらみ〟に捕らわれた生き方、と言ってもいいでしょう。
一方、〝ひとり〟でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。他人の視線はあまり気になりませんし、他人と自分を比較したり、評価し続けたりすることもありません。他者とのほんとうの〝つながり〟に開かれた生き方と言ってもいいでしょう。
そうです。私たちはまず、〝ひとり〟でいる決意をしなくては、真の人間関係に、真の〝つながり〟に開かれることもできません。
〝ひとり〟でいる決意をし、自分の孤独を深めることができた人にだけ、他者との真の出会いも可能になるのです。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』 p20)
大切なのは、多少、不安になったり、つらさやさみしさが襲ってきたとしても、そこから逃げ出さないこと。しばらく、じっと、そこにいること。そこに、とどまり続けることです。
孤独であることの不安やさみしさに耐え、じっとそこにとどまっていると、次第に孤独であることの新たな意義が見えてきます。新しい感覚が生まれてきます。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』 p244)
まず行うべきは、自分のなかの孤独と向き合い、孤独であることに意味や価値を見出し、自分が孤独であることを受け容れることなのです。
とはいうものの、真に孤独を乗り越えることは、実際にはそれほど簡単ではありません。
孤独を克服したつもりでも、何かのきっかけで<ひとりであること>のつらさや寂しさを感じることはあると思いますし、それは人間としては当たり前だとも思います。
<孤独>と向き合うことによって、初めて出会える<つながり>もある。
ところが、<孤独>と向き合うことによって、初めて出会える<つながり>もあるのだと私自身は考えています。
そのつながる相手とは、人だけとは限りません。
自分自身の知らない部分であったり、本や映画、マンガのなかの登場人物や作者であったりするかもしれません。
もしくは、自然のなかの動物や植物、鉱物、音や光、色や香り、芸術の対象になるような神秘的な風景などかもしれませんが、そのつながる相手とは、もし孤独を自分で受け入れなかったら、決して出会えなかった<何か>なのであることは確かです。
このことは反対に言えば、いくら孤独を感じているとしても、私たちは現実世界に生きている以上、本当はつねに<いのちの働き>ともいうべき何らかの存在とつながっているのだということを意味するのであり、孤独を感じている間は、ただ、そのことに気がついていないだけかもしれないのです。
つまり矛盾するようですが、真に孤独になることで、一人であっても本当は誰かや何かとつながっている・関係しているということに気づくことがあるのです(このことは、仏教でいう「縁起」(相互依存的生起)に近いように思います)。
したがって、孤独を克服するためにまず大切なのは、自分が孤独であることを引き受ける勇気なのです。
もし、孤独を癒すことのできる人間関係がありうるとすれば、それは、その関係の中で、互いがより深く孤独に徹していけるような人間関係、その関係の中で、互いがますます深くひとりになり、自分自身になりきることができるような人間関係でしか、ありえないであろう。
孤独は素晴らしい。
人が真の自分に出会うのも、自分の人生で何がほんとうに大切かを知るのも、すべては孤独において、である。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p254)
〝ひとり〟でいることのできない人間関係は、たいへん不自由なものです。絶えず他人の視線を気にし、他人と自分を比較し、評価し続ける、がんじがらめの人間関係です。人間関係の〝評価〟や〝しがらみ〟に捕らわれた生き方、と言ってもいいでしょう。
一方、〝ひとり〟でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。他人の視線はあまり気になりませんし、他人と自分を比較したり、評価し続けたりすることもありません。他者とのほんとうの〝つながり〟に開かれた生き方と言ってもいいでしょう。
そうです。私たちはまず、〝ひとり〟でいる決意をしなくては、真の人間関係に、真の〝つながり〟に開かれることもできません。
〝ひとり〟でいる決意をし、自分の孤独を深めることができた人にだけ、他者との真の出会いも可能になるのです。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p20)
『孤独であるためのレッスン』は、孤独を克服するためのヒントが見つかる名著。
諸富祥彦氏はこのように述べているように、あえて孤独を選択することによって、「他者との真の出会い」を求めていくことが可能になるように思われるのです。
たとえ孤独を克服したつもりでも、大事なものをなくしたり、誰かを失うという離別の悲しみを味わったり、急に寒い一日が訪れたりすることによって、心は<寂しさ>を感じてしまうことは自然なことなのだと思います。
『孤独であるためのレッスン』を書いた諸富祥彦氏も、「忙しい毎日を走り抜けつつ、とても充実した日々を送っているつもり」でも、「突然ふと、とてつもない孤独感に襲われる」ことがあると、「おわりに」のなかで書いています。
そのため、<孤独>であることを乗り越えるのは、決して簡単ではないかもしれません。
しかし、もし独りであることに悩んでいて、この『孤独であるためのレッスン』に興味が湧いた方は、ぜひ、実際に手に取って読んでみていただきたいと思います。
本書を読むことで、今よりも孤独と向き合うためのヒントが見つかるかもしれませんし、この本をきっかけにして、自分自身の孤独がやわらぐような、何か新しいつながりや発見が生まれるかもしれません。
以上ここまで、<ひとりになったら孤独と向き合え>として、『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦 著 NHKブックス)を取り上げましたが、大切なのは、孤独を否定するのではなく、自分の孤独と向き合い、受け容れたうえで、新しいつながりを発見していくことだと思われるのです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(^^♪
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