孤独でつらい時こそ、心の支えになってくれる、いつも見守ってくれる存在が必要です。
前回の記事では、『「孤独」のちから』という一冊を取り上げ、ひとり時間を大切にするための<マイ・スペース>について述べましたが、今回は、「ひとり」で生きていくためには、自分のことを見守ってくれる存在が必要であるということについてです。
これは私自身の経験ですが、集団やコミュニティ、インターネットのなかで「つながっている」はずのに、どういうわけか孤独だと感じてしまう理由は、自分が誰からも関心を持たれず、孤立無援の状態に陥り、本当にひとりぼっちになってしまうことに恐怖と不安を感じているからだと思われます(だからこそ、どうしても誰かとつながらなくてはならない、とつながることに依存してしまうのです)。
しかし『「孤独」のちから』のなかで、臨床心理士である諸富祥彦氏が、
ひとりでも生きていくために必要なのは、逆説的ですが、「この人だけは私を見捨てない」という人の存在です。ひとりでたくましく人生を歩んでいくことを選ぶからこそ、いざとなれば「この人だけは何があっても見守ってくれている。支えてくれる」という人を見つけて、心にとめておいてほしいのです。
自分が落ち込んでいるときも、失敗したときも、挫折したときも、仲間はずれになったときも、どんなときでも自分を見放さない人。そういう人の存在を心にとめておくことで、ひとりでいる不安や恐怖を乗り越えることができるのです。
と述べていることは傾聴に値します。
しかしそういう、いざとなったら支えてくれる人が身近に一人もいないから孤独なんだ、孤独であることについて悩んでいる、と思われる方も多くいらっしゃるかもしれません。
このことに関しては、諸富氏は、「亡くなったおじいさん、おばあさんなど、この世にいない人」や「歴史上の人物、芸能人、小説や映画や漫画の主人公でもオッケー」であるとしており、
「要は、その人が実在しようとしまいと、その人のスピリットをありありと感じることができればいいわけです」
と述べています。
私自身がそうでしたが、もし一人であることがつらい時に身近に頼れる人がいない場合は、心の支えになってくれる、いつも見守ってくれる存在が必要になってきます。
(ちなみに『ブッダの智恵で、脳ストレスを減らす生き方』のなかで述べましたが、仏教に関心を持ち始めた30代から現在に至るまで、私の心の拠り所はブッダです)。
もう一つ、真に孤独を生きるために大切なのは、自分で自分の人生を肯定することであるように思います。
諸富氏は、
自分が自分の人生を肯定しなくては、ひとりで自分らしい人生を生きていくことはできません。そのためには、少なくとも「自分だけは自分の味方だ。自分だけは自分を見捨てない」という決意が必要になってくるのです。
と述べていますが、自分自身の境遇を悲観的に眺め、ひとりである自分のことを痛めつけるのではなく、いわゆる「自己肯定感」(容貌や学歴など条件付きでもなく、ただ、いま生きている自分を素直に、かけがえのない存在として認めてあげるということ)を高めたり、すぐに高められなくても、瞑想やセルフ・コンパッションなどの習慣によって、長い目で見て育てていったりすることが重要なのであると考えられます。
多くの人は、深い孤独に陥ったときに、「この世に自分の味方なんか誰もいない!」と思い込んでしまいます。「この人だけは私を見捨てない」はずの人さえ「自分のことをわかってくれない」と思ってしまうこともあるでしょう。そうして「誰もわかってくれないならもういい!」と人生を投げ出してしまうのです。
自分が自分の人生を肯定しなくては、ひとりで自分らしい人生を生きていくことはできません。そのためには、少なくとも「自分だけは自分の味方だ。自分だけは自分を見捨てない」という決意が必要になってくるのです。
自分がとことん自分の味方でいられるためには、自分の心の動きのすべてを――それが憎しみであれ、みにくい妬みであれ、怒りであれ――深いところで、受け入れていくことが必要です。
(諸富祥彦『「孤独」のちから』 78頁)
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