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マインドフルネス瞑想は、日々の生活のなかでこそ活かされるべきものなのではないでしょうか?
そういうわけで今回は、呼吸によるマインドフルネス瞑想をより深めたり、日常生活のなかで実践していったりするために、ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』(藤田 一照 訳 春秋社)という一冊をご紹介したいと思います。
まず、この『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』は、
- 「全身での呼吸への気づき」
- 「錨としての呼吸」
- 「選択のない気づき」
という3つのステップについて示されていることが特徴なのですが、ラリー・ローゼンバーグ氏が、本書のなかで、
呼吸は、人生の道を、最初から最後までずっとあなたに付き添ってくれます。あなたは、身体、感受、精神的形成物、心そのもの、そして、無常と実体的な自我は空であるという法を学びます。呼吸についての濃縮された方法は、あなたを自由へと解放する実践なのです。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p15)
マインドフルであろうとする努力が脱落してしまうと、より自然な行為の行き着く先は、「無為(nonaction)であるように思われました。わたしは次第に、この発見をはっきりと認識し、安定させ、その中に憩い、それが「自分」に働きかけてくるままにさせておく実践に、関わっていくようになりました。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p139)
と述べていることは、瞑想の本質を考えるうえで非常に印象的であるように思います。
クリシュナムルティと「選択のない気づき」。
特に、四十年前にクリシュナムルティから「選択のない気づき」、「自分が現にどのように生きているか」、すなわち、「注意を注ぐ価値のないことなど一つもないということ」(p9)を教わったことが、著者のラリー・ローゼンバーグ氏にとっては非常に大きな出来事だったように感じられます。
わたしの四十年間にわたる修行の道は、クリシュナムルティと選択のない気づきから始まり、十年間にわたる禅、そして三十年間に渡る洞察の実践と呼吸への気づきという変遷をたどってきました。逆説的なことですが、わたしの洞察の実践が進展するにつれて、呼吸への気づきは、注意を向ける対象としての呼吸をもはや必要としなくなるためのジャンプ台になりました。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p15)
関係性のなかで活かすためのマインドフルネス。
さらに、本書の第五章「関係性における気づき」では、
「自己を発見する手段としての関係性についてのわたしの理解は、四十年前にクリシュナムルティから学んだことにその淵源があります。彼にとって、関係性、気づき、そして学ぶことの三つは切り離すことのできない一つのまとまった実践をなしていました。」(p200)
と述べられ、より詳しくクリシュナムルティの言葉について説明がなされています。
「関係性」という言葉をわたしが使うとき、それは親密な人とのつながりにのみ限定されるものではないことを心にとどめておいてください。それは他者が存在しているところにあなたがいるあらゆる機会を含んでいます。さらには、あなたと対象物、自然、芸術や思想との関係性さえも含むことがあります。もちろん、それは何よりもまずあなたのあなた自身との関係性を意味します。この観点から見れば、人生とは要するに、諸所の関係性の総体に他なりません。一人で坐っているときでさえ、心が生み出すものや身体の動きに対して関係性を持つことによって、あなたはあなた自身について学んでいるのです。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p199~200)
関係性と学びは相互に協力しあって働きます。ある意味で、関係性の実践は生涯にわたって継続する教育講座のようなものです。わたしにとって、こういう生涯続く学びは、このアプローチの精髄です。もしあなたがそこにもどり続けるなら、価値的な判断から今起きていることの理解へ、そして条件づけられた反応から新鮮でほんものの対応へと、変わることを後押しする材料の尽きることのない源泉を見出すことができるということを、わたしは請け合います。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p211~212)
そして、このようなくだりからは、マインドフルネス瞑想の実践は、人はもちろんのこと、モノや自然など、様々な関係性においてこそ活かされるということが伝わってくるのであり、気づきの瞑想であるマインドフルネスは、人間関係、仕事や家事、介護、育児といった、日常生活の様々な物事から単純に切り離されて語られるものではないということが分かってきます。
わたし自身、ラリー・ローゼンバーグ氏による『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』の内容を、細かく咀嚼し、呑み込んで全てを吸収することで実践できているわけではありませんが、「全身での呼吸への気づき」をはじめとして、この本に書かれていることは、まだまだ修行が足りない自分のこれからの課題と捉えて大切にしていきたいと感じています。
また、本書を読み進めていくなかで、この一冊は、わたし自身がマインドフルネス瞑想(もしくはヴィパッサナー瞑想)を実践する過程で、何となく感じていたことが、著者によってくっきりと高い解像度で言葉にされているように思いました。
何となく感じていたこととは、具体的には、マインドフルネスにしろ、ヴィッパサナーにしろ、瞑想実践は、日常生活と厳密に分けられるものではなく、日々の生活のなかでこそ活かされるべきものなのではないか、という思いです。
より分かりやすくいうならば、瞑想は何時間も胡座の姿勢で座り続けるだけではなく、座っていない時間も、一見、とるに足らないことやささいなことに、注意を払うようにすることで、より心はしなやかになるのかもしれない、ということです。
日常における気づきや呼吸によるマインドフルネスについて関心がある方は、ぜひ、ラリー・ローゼンバーグ氏による『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』を一読してみてはいかがでしょうか?
教えは、われわれを鼓舞してくれます。教えをただ聞くだけでも自分の知性を満足させ、感情を豊かにしてくれるからです。しかし、たとえそうであっても、本書の三つのステップを読み、それを実践するときには、次のような問いを自分に問うことを忘れないでください。その問いとは、「この実践はわたしをどこへ連れて行こうとしているのか?」「呼吸への気づきあるいは選択のない気づきの実践が、もっと優しさと智慧をもって行動する方向へとわたしを導いているだろうか?」。これを何度も繰り返し吟味してください。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 p33)
気づきとは、単なる言葉ではありません。気づきは、この上なく洗練された観るエネルギーの特質を指す言葉による呼称です。気づきには、重さも色もありませんし、それを手で掴むこともできません。しかし、観察する心がより力を増してくるにつれて、それはかまどのようになります。わたしたちが恐れや孤独感といったラベルをつけるエネルギーに、この観るエネルギーが触れるとき、素晴らしい錬金術が起きるのです。
(ラリー・ローゼンバーグ 『〈目覚め〉への3つのステップ マインドフルネスを生活に生かす実践 』 藤田 一照 訳 春秋社 p154)
ヴィパッサナー瞑想は、そこに何が現れても、価値判断や好みなしにそれを迎え入れる能力を徐々に広げてゆく実践です。それがそこに在るから、自分もそれと一緒に在るのです。見捨ててよいものや、どうでもよいものは、何一つありません。あなたはかまどの中に投げ入れられるすべての木と親密になることを学んでいるのです。今現在の瞬間に起きていることと全面的にともにいると、人を自由へと解放する変容が起こります。それこそが、ダルマの実践を成立させているものです。これが、実際に働いている選択のない気づきなのです。
(同)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます(^^♪
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