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コロナ禍の日々が苦しいという時こそ、ブッダの智恵で気持ちをラクにする生き方、始めてみませんか? 今回の記事では、心の苦しみを少しでも減らしていくためにブッダの教え「無常」について述べていきたいと思います。
前回の記事では「慈悲」について書きましたが、ブッダの重要な教えとしてはほかに「三相」や「三法印」と呼ばれる「無常・苦・無我」があります。
- 「諸行無常」
- 「一切皆苦」
- 「諸法無我」
という言葉のどれかを、これまで一度は耳にしたことがあるかもしれませんが、この三つは、世界の見方、世界の在り方に関して、ほとんど同じことを言っています。
原始仏典のうちの『ダンマパダ』には、以下の言葉があります。
「世のもろもろのことはすべて、無常である」と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる。
これが清浄に至る道である。「世のもろもろのことはすべて、苦しみである」と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる。
これが清浄に至る道である。「世のもろもろのことはすべて、我ならざるものである」
と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる。
これが清浄に至る道である。(二七七・二七八・二七九)(『日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』 今枝由郎 訳 127‐128頁)
今回は「無常・苦・無我」のうちの「無常」についてです。
無常とは何か?
「無常」とは物事は常に変化し続けているということであり、分かりやすく言えば、全ては移ろうということです。物質や生命といった現象は、止むことなく常に変化し続けており、常に生じては滅しています。つまり生成消滅を繰り返しているのです。
別の言い方をすれば、「永遠性をもたず、実体を欠き、確実性も真理性もない。すべて有限であり、無限であることはできない」ということです(参考 三枝充悳『インド仏教思想史』)。
ちなみに「諸行無常」の「行」とは、「行い」や「行動」のことではなく、「形成されたもの」「条件付けられたもの」などを意味するパーリ語の「サンカーラ」のことです。
私たちは楽しい時間を過ごす時、この幸福な瞬間はいつまでも変わらず、ずっと続いてほしいと願いますが、物事は移ろうため、どんなに楽しい体験もいつかは終わってしまいます。
そのためすべては儚(はか)ないと感じられます。
「無常」は常に成り立つ真理
一方、何をやってもうまくいかず、自分の人生は八方塞がりで絶望的だと感じたとしても、つらい状況はずっと続くわけではありません。身体に生じた痛みやかゆみも時間の経過と共におさまります。
たとえ毎日は同じことの繰り返しだと思えたとしても、ほんの少し観察するだけで、昨日と今日は決して同じではないことが分かります。目の前にあるコップやボールペンといったモノの数々も、一見変化していないように感じられますが、原子レベルでは刻々と変化し続けています。
出口が見えないコロナ禍もいつかは終わります。
このように「無常」は自分が認めようが認めまいが、そのことに関係なく常に成り立つ「真理」なのです。
もし変化しないことや永遠に執着し、全ては「無常」であることを受け入れられなければ、心は苦しくなります。
たとえお気に入りのTシャツや本などを大切に保管していたとしても、時間の経過と共に色あせてしまうからです。自分自身が何かに愛着を持ち、固執し続けたとしても、それらは常に変化しているため、いつもと同じではないのです。
すなわち、永遠不滅のものを求め、変化していることを受け入れられなければ、「無常」は苦しみになるのです。
反対に「無常」であることには抗えないと気づき、この世の物事は常に変化していることを観察して理解することができれば、一つの物事に執着したり固執したりすることはなくなります。
常に「世界」を「無常」として眺めるのは簡単ではありませんが、物事は常に変化している、「無常」であるというお釈迦さまの教えを正しく理解するだけで、これまでの「世界」の見方は一変するのです。
無常は、仏教の修行者にしか役に立たない教えではありません。完全に無常を知って悟り、解脱にいたらなくても、「存在はすべて無常なのだ」と覚えておくだけで、人生は完全に平穏になり、幸福になるのです。無常はすごく役に立つのです。
(アルボムッレ・スマナサーラ『無常の見方』 160頁)
今回は「無常」について述べてみました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(^^♪
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