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令和の時代が新しく始まったのに、何をやっても幸せになれないとお悩みではありませんか?
前回の記事では、苫米地英人『一生幸福になる 超訳「般若心経」 』を取り上げ、「空」を実現する生き方について述べましたが、今回は、令和の時代の真の幸福の実現のために、苫米地英人『超悟り入門 いつまで悟りにこだわっているのですか?』を取り上げていきたいと思います。
以前、当ブログでは、苫米地英人氏の『いい習慣が脳を変える』『音楽と洗脳』などを紹介しましたが、苫米地氏の新刊である『超悟り入門 いつまで悟りにこだわっているのですか?』(徳間書店)は、タイトルが「悟り」を超えることを意味しているとおり、現代における「悟り」や「瞑想」の意義を考え直したり、定義し直したりするために非常に有益な一冊であるように思います。
まず、第1章「悟り入門」では、「悟りの誤解は当て字翻訳が原因」だとし、
- 「「悟り」は日本人が勝手に考えている概念である可能性が高い」
- 「「悟り」はもともとの仏教にはなかった概念」
だとしている点に、正直なところ、目から鱗が落ちます。
「悟り」を求める人の多くは「悟り」が絶対的真理、究極の答えだと思っています。実際、広辞苑の「悟り」の説明は「迷いが解けて真理を体得すること」でした。
真理とは永遠なるもので、イコール神としか言えないものでしょう。
確かに、そのようなものが本当にあるのならば追い求めてもいいでしょう。しかし、釈迦はそんなものはないと否定しています。ですから、仏教において、真理を求めることを「悟り」とするのは大きな間違いなのです。
(苫米地英人『超悟り入門』 p27)
「悟り」とは「この世は幻である」と理解すること。
では、「「悟り」はもともとの仏教にはなかった概念」であることを踏まえたうえで、一般的にいう「悟り」とは、そもそも何を意味するのでしょうか?
「悟りとはなにか?」ということについて、
「「この世は幻である」と理解すればいいだけです」
と「はっきり言葉に」しています。
また、繰り返すようですが、「私たちは現実に幻の中で生きている」ことを「理解することを「悟り」」という」のだとし、「悟りとは「この世が幻であると理解できること」なのだとしています。
悟りを理解するのは簡単です。
「この世は幻である」と理解できればいいのです。映画やテレビが身近にある現代人にとって、「なるほど、この世は幻かもしれないな」と気づくのはそれほど難しいことではないはずです。
私が常々「悟りは小学生にも理解できる」と言っているのは21世紀のテクノロジーが日常生活の中にあふれる現代だからです。
とはいえ、悟りを現実世界で使いこなすには、やはり理解だけでは足りません。実感が必要になってきます。
この実感を得るには瞑想がとても効果的なのですが、その理由は、そもそも釈迦自身がそうだったからです。
(苫米地英人『超悟り入門』 p37)
瞑想とは「思考実験」。
瞑想をするとはそもそもどういうことなのか、ということについてわたし自身よく考えますが、苫米地英人氏は、瞑想に関しては、瞑想とは「思考実験」であると捉え、「心を空しくし、煩悩を消し去ること」「考えないこと」ではなく、「瞑想は考えないどころか、考え抜くことだったのです」という、ほかの瞑想の解説本には見られない見解を示しています。
また「煩悩は小さくするのではなく、逆に巨大にする」のであり、「自分の欲のための煩悩のこと」である「小さな煩悩」ではなく、「自分以外のために考え、行動すること」が「煩悩を上手に扱うコツ」なのだといいます。
そしてそのことを「体感」するために、『超瞑想法』(PHP文庫)でも説明されていた
- 「止観瞑想」
- 「歩行禅」
- 「黙って食え瞑想」
- 「マトリックス瞑想」
- 「六本木ヒルズ瞑想」
が紹介されています。
ですが、苫米地氏は「瞑想は悟りさえ理解できれば、早めに卒業すべきものなのです」とし、釈迦の悟り(「空」と「縁起」)について説明がなされている次の第3章「脱瞑想入門」では、
「瞑想の目的の一つには煩悩を弱める、執着から離れるというものもあるのですが、逆に快感を得るために瞑想にハマってしまったのでは本末転倒です」
とあるように、何のために瞑想をするのか、瞑想の目的について考えさせられる内容になっています。
釈迦は西洋でも東洋でも正しいとされてきた因果の考え方、確固たる存在を完全に否定し、すべてのものは時間的にも空間的にもつながっていること、絶対的なものなどなにもないことを解き明かしたのです。
これを理解できれば、たとえ、「この世が幻である」ことが理解できなくても、人々がなにをすべきかは見えてきます。来世でのより良い自分の転生のために現世で苦しむ日常を我慢するのではなく、いま生きている自分や隣人、さらにいうならば、生きとし生けるすべてのものや事象がより良いものになるために明日を目指して生きることができます。
我慢するだけの日常から明日が見える日常。これは人々にとって大きな救いになるでしょう。
(苫米地英人『超悟り入門』 p75)
「釈迦の救いが通用しない現代」に示される、悟りの向こうにある道筋。
第4章と第5章は、「脱悟り入門」と「超悟り入門」となっており、「釈迦の救いが通用しない現代」について述べられています。
お釈迦さまが生きていた時代とは違う、現代の情報空間における「煩悩」や「欲望」、「お金」「幸せ」といったことをはじめとしたその内容については、実際に本書を手に取ることで確かめていただきたいと思いますが、この二つの章をじっくりと読むと、(「空」「縁起」など)21世紀の釈迦として生きるとはどういうことなのか、その道筋がくっきりと見えてきます。
具体的には、利他的に生きるということです。
21世紀の悩みは、すべて自分の幸せを一番にと、そればかりを考えているから尽きないのです。
大切なのは自分ではなく、他人です。それも自分の家族は含めない、まったくの他人。それを、自分を愛するかのように愛することができれば、悩みは消えてなくなるのです。
(苫米地英人『超悟り入門』 p145)
『超悟り入門』で「瞑想」や「悟り」についての捉え方を変えてみる。
以上ここまで、苫米地英人氏の新刊である『超悟り入門 いつまで悟りにこだわっているのですか?』(徳間書店)を、感想やレビューも兼ねながら紹介してみました。
「瞑想」や「悟り」というものに関心がある方は、この苫米地英人氏の『超悟り入門』を実際に読んでみると、自分自身の「瞑想」や「悟り」についての捉え方が変わるように思います。
ちなみに私自身は、この苫米地英人氏の『超悟り入門』を実際に読んで、「瞑想」や「悟り」は目的(ゴール)ではなく、自分にしか成し遂げられないような大きな目標や利他的な生き方を達成するための手段にすぎないのだという思いを強くしました。
また、当ブログではマインドフルネス瞑想を生活習慣にとりいれることを推奨していますが、(マインドフルネスがビジネスでもてはやされることを含め)「瞑想」や「悟り」、「スピリチュアリティ」というものが産業としてブームになるような世の中の傾向に対して何となく違和感を感じている方も、「瞑想」や「悟り」について従来とは違った見方をするために一度読んでみるといいかもしれません。
『超悟り入門』にはハイレゾ版・特殊機能音源が付録。
なお、この『超悟り入門』 には、
皆さん、この音源を聴きながら、悟ることを考えるのではなく、他人のために生きることで喜びを見いだす自分を見つけてください。
それが21世紀の超悟りなのです。
とする、「一週間で悟るためのブースト機能音源」『Stay Calm』「21世紀の瞑想のための機能音源」『Feel Your Beaty Things』というふたつのハイレゾ版・特殊機能音源が収録されたDVDが付いています。
この2種類のハイレゾ版・特殊機能音源は、同じ徳間書店から出ている『音楽と洗脳』と同様、かなり高品質なものとなっていますので、付録の特殊機能音源目的で『超悟り入門』を買うのも、もちろんアリだと思います。本体価格2200円は安すぎです。